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2010年8月14日土曜日

縄文派/弥生派

au design project以来のデザインケータイは、インターネット文化やデザインブームの世界的潮流の中から生まれ、モダンデザインの系譜に接続され得るものだが、iidaになって始めたArt Editions(第1弾は草間彌生さん作品)は、究極のデコ電みたいなもので、日本の土着的かわいい文化の派生形である。。。こんな整理をしているうちに頭に浮かんだのが橋本治さんの「縄文的なもの/弥生的なもの」という日本文化の分別方法。この分別方法に従えば、デザインケータイって「弥生」的で、Art Editionsって「縄文」的だなと一人で納得。古代から現代まで日本文化には「縄文派/弥生派」という2つの潮流が渦巻いているとするこの分別方法を使って目に付くもの何でも分けてみると、スッキリ爽快、分かった気になるので僕はとっても気に入っている。

僕がこんな素敵な分別方法を手に入れたのは、橋本治さんを特集した何時ぞやの『芸術新潮』立ち読み。。。それっていつだったんだろうと、この機会に調べてみたところ、『芸術新潮』2003年10月号「特集 橋本治がとことん語るニッポンの縄文派と弥生派」だった。そんなに前だったんだと感慨に耽りつつ、ここまでお世話になったんだから買わなくちゃいけないよねという気になり、ヤフオクやら楽天やら探してみたところ、とある美術商のネットショップで1冊発見→即購入と相成りました。

「縄文派」って?「弥生派」って?それぞれに当てはまる具体的なモノをあげれば、誰でも直感的に分かります。


「縄文派」に属するモノ:北斎、安土城、日光東照宮、刺青、ヤンキーファッション、ヤン車(族車)、デコトラ、デコ電、渋谷109、アゲハ嬢などなど。豪奢で華麗、極彩色だったりラメラメだったり、俺を見ろ!私を見て!系。縄文派の代表的なデザイナーといえば森田恭通さんでしょうかね。

「弥生派」に属するモノ:光悦、龍安寺の石庭、桂離宮、相撲取り、無印良品、ソニーデザイン、モダンデザインなインテリアなどなど。侘び・寂び・禅系。弥生派の代表的なデザイナーといえば原研哉さんかな。

どっちが偉いかというと、だいたい弥生派の方が縄文派より断然偉い(笑)。。。縄文派は「土着」的で、弥生派は「和風洗練」。縄文派は「芸術」であり、弥生は「生活」。縄文式土器の一種、燃え上がる炎のようなフォルムをした火焔土器は「芸術は爆発だ!」そのものだし、のっぺりとしていて実用的な表情の弥生式土器は「生活!」って感じ。

前掲の『芸術新潮』の中で橋本治さんが「埴輪 VS 土偶」「光琳 VS 宗達」という対決で「縄文的なもの」と「弥生的なもの」の違いを解説しているのがとてもわかりやすい。

「埴輪 VS 土偶」:埴輪というのは、「琴を弾いている人」とか「馬に乗っている人」とか「○○の人」というスタティックな表現になっていて、言ってみれば「体言止め」。「動き」よりも「人としてのたたずまい」が重要視されているのが埴輪。一方の土偶は「○○の女」といった静的な体言止めではなく、「女の○○している状態」といったダイナミックな状態とか感情を表現している。土偶は「女の怒れる」のような形。土偶のテーマは行為か感情かそういうものに由来する「ある状態」。ふむふむなるほど。

「光琳 VS 宗達」:光琳「紅白梅図屏風」の前ならきっと誰でも立ち止まるが、宗達「蓮池水禽図」の前はスッと通りすぎてしまう。光琳の絵は「見ろ」と言っているのに対して、宗達の絵は、気配を消している。「だから、スッと通り過ぎてしまえる。でも、通り過ぎた後で何かが残る—「あれ、今、確かに絵があったぞ」と思える。そう思ってみると、すごくいい絵だ。」(前掲 P.18-19)。宗達に関する後半の解説は、まるで昨今のデザイン論を聞いているかのよう。

日本文化のベースになっているのは「弥生」。そこに「異物」「過剰」としての「縄文」が出たり入ったりを繰り返してるのだという。その「弥生」というのは、一定のフォーマットの中で美を生み出すシステムである。「弥生」にも2種類あって「フォーマットの中であんまり暴れないようにするのが「弥生の弥生(大弥生)」なら、一定のフォーマットだからこそ縄文の血が騒ぐというのが「弥生の縄文」」(前掲 P.36)。例えば印籠。豪華な蒔絵などで装飾に凝って実用性から遠ざかろうと、「薬入れ」ですと言い訳できるよう重箱状の構造という薬入れとしてのフォーマットは残す。アクセサリーでも実用なんですよという「言いわけの美学」が弥生的な美学。からくり人形だって、お茶を運ばせる=実用ですよという言い訳が込められているし、簪についた耳かきもしかり。遠目には地味な小袖でも、よくみると松の細かな文様でびっしり埋め尽くしている。生活に根ざした実用というフォーマット=制約を崩さず、その上で大なり小なり遊びを楽しむのが弥生的な美学なのだ。神のイデアや権力者のロゴスに奉仕する西洋美術に対して、生活から生まれ、生活に密着しているのが日本の美術。なるほど、日本文化、日本美術そして日本の感性の基本は「生活」なのだ。そこでiidaのテーマ「LIFE > PHONE」???

先日、現代美術家・天明屋尚キューレーションによるアートイベント「BASARA展」が青山のスパイラルガーデンで開催された。僕は、残念ながら全くもって行けず、未だにその展覧会の詳細を知らないで書いているのだけれど、展覧会の説明にはこうある。「侘び・寂び・禅の対極にあり、オタク文化とも相容れない華美(過美)で反骨精神溢れる覇格(破格)の美の系譜「BASARA」をテーマに、大胆かつダイナミックな和の世界が展開されます。」そして、出展作家の作品に加えて、出品されていたのは「印籠/織部茶碗/鍔/変わり兜/簪/縄文土器/煙草入れ/デコ電/族車/デコトラ他」。要するに「縄文派」を特集した展覧会なわけですね。時代は「縄文的なもの」=「異物、過剰」を求めているのでしょうか。ですね、きっと。僕がArt Editionsをやっているのもそうした時代の気分の反映なのではないかと。