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2010年3月22日月曜日

Twitter時代のデザインマネジメント

●ゼロ年代的「デザイン」の終焉

iPhoneとかTwitter、Ustreamで始まった10年代においてデザインマネジメントはどうあるべきなのか?ゼロ年代のデザインマネジメントはあまりにブランディングと手をつなぎすぎた。本当のイノベーションとは結びつかず、その結果、大した実りもなく過ぎ去った。ゼロ年代、デザインマネジメントはブランディングの僕だった。そういう意味で、10年代はもはや「デザイン」の時代ではないと、まずは宣言しよう。「エモーショナル」とか「感性」とか、ゼロ年代に流行った言葉も一度、忘れてしまおう。


デザインは、もちろん、マーケティングやブランディングの僕などではない。他社の商品と差別化を図って競争に勝ち抜くための道具でも、ブランドを表層的に格好良く見せるための手段でもない。デザインとは人とモノとのより良い関係、身体的にも精神的にもより豊かになるような関係を考え、形にすること。それをきちんと実践した企業こそが、顧客からの信頼や共感を獲得し、結果としてブランド力が高まっていくのであって、その逆ではない。「ブランド力を高めるために」とか「他社との差別化を図るために」という目的設定は本末顛倒だ。人々のため、社会のためにモノやサービスをより良くデザインし提供することこそが第一義である。


●10年代=「ケータイ」カルチャー、世界へ???

ケータイはポスト団塊ジュニアが主役を演じた90年代ポップカルチャー、「カワイイ」カルチャーと密接な関係を持ちながら発展してきた。10年代はゼロ年代に培ってきた「ケータイ」カルチャーを世界にもっと輸出しよう。ゼロ年代、日本人はケータイに夢中だった。お金もケータイに費やした。若者は車も買わず。日本の叡智、消費のパワーは全てケータイに費やされた。そして今やガラパゴス化なんて言葉を編み出して、自らの過去を自虐的に攻撃し始めた。iPhoneを黒船に例えて、必要以上にびびっている。Appleは素晴らしい。それでいいじゃないか。そして日本人の誰もスティーブ・ジョブズになんかなれないし、Appleのような企業なんて絶対に生まれない。スティーブ・ジョブズやAppleについて書かれたたくさんの本が出てるし、それらを読むとやっぱりAppleは凄い、うちの会社は、日本の会社は駄目だなんて思ってしまうけど、Appleから学べることなんて本当は何もないのかもしれない。学んだところで実現しない。ただ羨ましく思い、ただただ素晴らしいMacやiPodやiPhoneを素直に使えば良い。そして、僕らは「ケータイ」文化をもっと洗練させて輸出しよう。

●プラットフォームデザイン

10年代により重要となる概念は「プラットフォーム」。ガラパゴスの諸島から脱出するには、世界標準のプラットフォームに乗せて、浮世絵のごとく、ゼロ年代の鎖国時代に培った日本のケータイ文化や日本のポップカルチャー、日本的思考・アイデア・コンセプトをせっせと輸出しよう!世界標準のプラットフォームの上に乗せるものをデザインすること。プラットフォームの上でデザインすること。

あるいは、日本発、TOKYO発の全く新しいプラットフォームをデザインする。。。できるかな???

100%デザインしてしまわないこと。世界に通用するプラットフォーム&ユーザーが一定のルールの下で好きなようにカスタマイズできるプラットフォーム&バージョンアップし続けることのできるプラットフォーム。レゴのように

シンプルで、誰もがクリエイティビティを発揮できて、どう組んでも美しい、かわいい、かっこいいプラットフォーム。


●横断的・統合的デザインマネジメント

プラットフォームの上には、様々なモノが乗るから、当然ながら横断的・統合的デザインマネジメントがこれまで以上に重要になる。プロダクトデザイン、エンジニアリングデザイン、インタラクションデザイン、グラフィックデザイン、エコシステムデザイン。。。



Twitter時代のデザインマネジメント(Keywordのみ)

● ゼロ年代的「デザイン」の終焉   
● 10年代=「 ケータイ」カルチャー、世界へ?
● プラットフォーム・デザイン
● 横断的・統合的デザインマネジメント

デザインケータイの10年:「携帯電話」から「ケータイ」へ ポスト団塊ジュニアによるコミュニケーション革命

1993年~1996年当時の女子高生たちは、それまで、官公庁や医療機関における緊急時の連絡手段、あるいは外出中の営業マンや経営幹部、管理職などと連絡を取るためのビジネスツールだったポケベルを、友達や恋人同士のコミュニケーションツールに変えてしまった。「0840」(おはよう)、「724106」(何してる?)、「14106」(愛してる)。ポケベルに表示される数字の語呂合わせでコミュニケーションすることを発明し、ポケベルブームを巻き起こした彼女たちは、1975年から1981年にかけて生まれた「ポスト団塊ジュニア」世代*1(2010年の時点で29歳~35歳)。そもそも彼女たちによるポケベルブームが無かったら、日本のケータイは「ガラパゴス化」と呼ばれるような世界標準とは異なる特異な進化を遂げることはなかったのかもしれない。ポスト団塊ジュニアはポケベルからPHS(通称ピッチ)そしてケータイへと渡り歩きながら今日のケータイ文化を築きあげた。

ポスト団塊ジュニア世代のちょうど真ん中にあたる1978年生まれを例に「ポケベル→ピッチ→ケータイ」という変遷を振り返ってみよう。78年生まれが高校1年生だった1994年、ポケベルはまだ数字の語呂合わせだけでしかメッセージを送ることができなかった。1995年(高校2年)には、かな・英文字表示可能なポケベルが登場し、2つの数字の組み合わせでかな・英文字1字を打つ、所謂「ポケベル打ち」でメッセージを送ることができるようになる。1996年(高校3年)、当時新人だった広末涼子(1980年生まれ)を起用したNTTドコモのTVCM「広末涼子、ポケベルはじめる」の放映が開始される。この1996年がポケベルのピークで、この年の契約件数は1,078万件。うち10代女性の契約数が女性全体の36%、新規契約数では女性全体の新規契約数の64%が10代女性だった*2というから、いかに女子高生の間で流行していたかがわかる。

その後、女子高生たちのコミュニケーションツールの主役はPHSへと急速に変わっていく。携帯電話よりも音質が良く、高速データ通信が可能で、低料金であることをウリにPHSが登場したのは1995年。78年生まれが高校3年生だった1996年にはDDIポケット(現:ウイルコム)が半角カナ・英数字と絵文字を20文字まで送受信可能なPメールを開始する。もはやポケベルにメッセージを送るために公衆電話に並ぶ必要のないPメールのようなショートメッセージサービスと携帯電話より格段に安い料金は、当然ながら女子高生の間でブレイクし、PHSは彼女たちから「ピッチ」と呼ばれるようになった。

ただそれも束の間、ポスト団塊ジュニアによるコミュニケーション革命は、あっと言う間に携帯電話へと波及する。78年生まれが高校を卒業した1997年、各社の携帯電話端末にメール機能が搭載される。「携帯電話」は単に持ち運びできる通話のための機器から情報通信機器へと進化を開始。「携帯電話」から「電話」という単語が省かれて「ケータイ」とカタカナで書かれるようになる。ポスト団塊ジュニアの「ポケベル→ピッチ」という流れに合流して「携帯電話」は「ケータイ」へと変貌を遂げた。1996年以降の携帯電話料金の急速な値下げと1997年のメール機能搭載により、携帯電話は爆発的に契約数を伸ばす一方で、ポケベルもPHSもあっと言う間に衰退していく。PHSはケータイに対する優位点が高速データ通信しか無くなり、1997年の契約数710万をピークに減少の一途を辿る。PHSは、ポスト団塊ジュニアを中心とした若者たちから「ケータイに比べて安っぽい」、「端末がおもちゃっぽい」、「すぐ切れる」といったレッテルを貼られてしまった。お金があれば、社会人になったらピッチよりも高級なケータイへという気分が広まっていった。

78年生まれが大学生、社会人になった1999年にはiモードがスタートし、2000年3月末には携帯電話の契約数が5000万台を突破する*3。iモードのメール機能は、インターネットでEメールを受信するように、その都度サーバーに読みに行く方式ではなく、ポケベルにおいてメッセージが瞬時に届くことの利便性を取り入れ、ポケベル感覚で自動的にメールが端末に届くように企画したという*4。通話する機器としての「携帯電話」からポスト団塊ジュニアのコミュニケーションスタイルを取り入れた情報通信端末としての「ケータイ」への進化は、端末のデザインにも当然大きな影響を及ぼすことになる。

1994年、ユーザーが端末を買い取ることができる「携帯電話売り切り制」がスタートする。それまでは携帯電話端末は携帯電話会社がユーザーにレンタルする形を取っており、月々の利用料金にレンタル費用が加算されていた。「携帯電話売り切り制」により、基本料金が下がり、端末も安い価格で自由に選べるようになったことで、携帯電話が爆発的に普及していくことになる。この1994年は、さながら「携帯電話」デザインのカンブリア紀とも言えるような様相を呈し、様々なメーカーから多種多様なデザインの端末が登場している。1994年以前のユーザー層が医師や弁護士や政治家といった男性エグゼクティブ層であったのが、ビジネスマンへと広がっていく。多様なデザインとはいえ、デザインはバータイプ(ストレート)が基本の男性を意識したフォルム、カラーも黒が中心であった。この頃、一部の男性ユーザーから絶大な人気を得ていたのがモトローラのStarTAC(1996年)である。クラムシェル(二つ折り)タイプのStarTACは、当時の男性ユーザーが求めていた「カッコイイ」デザインの代表例だ。StarTACに限らず、この時代の「携帯電話」のデザインは、無線機やトランシーバーなどを彷彿とさせるいかにも男性的なデザインであった。

それが、1997年に「携帯電話」にメールが搭載され、ポスト団塊ジュニアをコアターゲットとした「ケータイ」に進化するや、デザインも大きく変わっていく。カラーは、それまでブラック中心であったのが、ポスト団塊ジュニアを中心とした10代~20代女性をターゲットとした商品企画が行われるようになり、パールホワイトやピンクなど明るく女性に受け入れられやすいカラー、そしてフォルムも曲線的な柔らかいフォルムが採用されうようになる。キティやミッキー、プーさんといったキャラクターや浜崎あゆみデザインの豹柄パターンがあしらわれたモデルも登場。ケータイのデザインは、コスメ的、ファッション的な要素をどんどん取り入れるようになっていった。

そして、音声通話よりもメールを打つための端末になり、iモード登場後はウェブブラウジングのための端末にもなったことで、キーボタンは電話番号を打つためのデバイスから文字を打つためのデバイスとなった。ディスプレイは電話番号や名前を表示するためのものから長文のテキストを表示し、あるいはウェブサイトを表示するためのデバイスとなった。1999年、iモード対応モデルとして登場したNEC製のN501iは、折りたたみ形状に今日では一般的な縦長の大型ディスプレイ、そして広いキーパッドを搭載していた。メールやウェブの使いやすさで、これ以降、ケータイといえばNといわれるほどNEC端末全盛の時代を築き上げた。Nと並んでPと呼ばれて人気を誇っていたパナソニックのモデルはストレートタイプの代表的な存在であったものの、2002年には折りたたみタイプに移行する。それまで主流であったストレートモデルは、大画面化や広いキーパッドエリアを確保する上で不利な形状であったため急速に勢力を失い、2001年には半数以上、2002年には、各社ほぼすべてのモデルが折りたたみ形状のモデルとなった。女性にとって親しみのあるコンパクトを思わせる折りたたみの形状や所作というのも、折りたたみ人気の一つの要因だったに違いない。

1995年以降のインターネットの急速な普及による情報革命とは全く別の文脈で、ポケベル→ピッチ→ケータイという変遷を辿ったポスト団塊ジュニアによる90年代のコミュニケーション革命。「携帯電話」が「ケータイ」となり、チャット感覚で頻繁にメールをやりとりするようになれば、ケータイは常に手の中にあることになる。使っていない時でも手でこねくりまわしている。ケータイとの距離感は、それが携帯できる「電話」でしかなかったことに比べて格段に近くなり、ユーザーの間により深い関係性が生まれてくる。端末の電子機器然とした佇まいに違和感を覚えるようになる。ケータイのデザインに対する関心は当然高まってくるし、もっと自分に近い「かわいい」存在であって欲しいと思えてくる。シールを貼ったり、ケータイよりも大きくて重いストラップをぶら下げたりすることで「ケータイ」を自分に近い存在に変える。ケータイを自分に近しいものに変えたいというカスタマイズに対する欲求は、ネイルアート感覚でケータイをラインストーンやビーズあるいはペイントしたりしてデコレーションする「デコ電」(2004年頃~)へと発展していく。

「ポケベル→ピッチ→ケータイ」という変遷を辿ったポスト団塊ジュニアの女性たちによるコミュニケーション革命。その流れの中で、通話のための端末であった「携帯電話」は情報通信端末としての「ケータイ」へと変貌を遂げた。「携帯電話」においてスタンダードな形であったストレート形状は急速に廃れ、折りたたみがスタンダードとなり、デザインテイストは男性的な「カッコいい」から女性的な「かわいい」を意識した流れへとシフトした。ポスト団塊ジュニアの女性たちは90年代の若者文化の担い手であり、次々と新しい流行を作り上げた世代だ。「コギャル」という言葉が初めて現れた1993年頃からはじまった女子高生ブームは1995年~2000年に本格化する。90年代中盤からゼロ年代初頭にかけては、多くの企業が時代の中心であった女子高生をターゲットとして商品開発を行う女子高生マーケティングの時代だった。彼女たちはルーズソックスに茶髪、プリクラ、たまごっち、109のカリスマ店員、カフェブームなどを生み出し、今日まで続く「かわいい」カルチャーを強烈に押し進めた世代である。その影響はアートの世界にも及び『美術手帖』も1996年2月号で「かわいい」特集を組んでいる。彼女たちが生み出した数々の流行の中に、ピッチやケータイ、iモードが名を連ねる。1995年に登場したプリクラは、写真を記録メディアから友達同士のコミュニケーションメディアへと変え、この流れが後の「写メール」を生むことになる。

女子高生による「かわいい」カルチャーのまっただ中でケータイは折りたたみ一辺倒になり、10~20代女性の嗜好に迎合したデザインが増えていった。ディスプレイやバッテリーの急速な大型化や多機能化といった技術トレンドを、凄まじいサイクルで新商品に落とし込むのが精一杯で、ユーザーが本当に求めている形ではなく、設計上の都合を感じざるを得ない形のケータイが増えていった。デザインは画一的になり、どれも似たようなケータイばかりが店頭に並んでいる状況であった。ケータイが一人一台に向かおうとしているにもかかわらず、デザインの多様性は失われていく流れになっていた。2000年頃は、デザインブームのまっただ中でもあった。「欲しいケータイがない」「デザインのいいケータイが欲しい」、デザインブームを支えていた人々を中心にそんな声が広がりはじめていた。2000年の夏、僕はau design projectの前身となるプロジェクトのプランを考えはじめた。

*1
1971年~1974年生まれの第二次ベビーブーマー世代を団塊の世代の子供という意味で「団塊ジュニア」世代と呼ぶ。その団塊ジュニアの「後」の世代ということで「ポスト団塊ジュニア」世代。ただ、消費社会研究家、マーケティング・アナリストの三浦展氏は、父親が団塊の世代で、かつ母親が団塊の世代かポスト団塊世代、つまり両親ともに戦後生まれの子供がたくさん生まれた1975年から1979年生まれの世代こそが本当の団塊ジュニア、「真性団塊ジュニア」だとしている。つまり「ポスト団塊ジュニア」と呼ばれている世代こそが、本当の意味での団塊ジュニアだとし、従来そう言われてきた「団塊ジュニア」は「ニセ団塊ジュニア世代」だとしている。
http://www.culturestudies.com/memdir/data/dan/default.html

*2
http://www.nttdocomo.co.jp/binary/pdf/info/news_release/report/070313.pdf

*3
ちなみに携帯電話の契約数が1億を突破したのは2007年12月末。

*4
「メールの機能については、現行で出てる端末をたくさん触って、メールをガンガン使ってる女子高生に会社の人間だというのはふせて(笑)、街でいろいろと話を聞いたりもしました。メールについては当初、パソコンでEメールを受信するのと同様に自分からサーバーへ読みに行く方式を考えていましたが、メッセージが瞬時に届くという利便性はポケベルでわかっていたし、女子高生なんかは実際にそれをチャット感覚で使っていたので、250文字という制限はありますが、携帯電話のメールも直接端末に届くようにしました。今は当たり前になっていますが、これがiモードメールの普及を促した一番の要因だと僕は考えています。」

2010年3月8日月曜日

デザインケータイの10年: プロトタイプinfo.bar ―2つの文化、2つの感性の合流 ―

Photo:Satoshi Sunahara
2001年5月、「info.bar」と名付けられた携帯電話のプロトタイプ(試作)を発表した。当時、米国のデザインコンサルティングファームIDEOの日本支社代表だった深澤直人さんとの初めての仕事。携帯電話は、もはや電話ではなく情報の棒(バー)と呼ぶのが相応しいということでそう名付けられた「info.bar」は、2003年10月にINFOBARとして商品化され、デザインケータイの先駆けとなった。

2001年5月、ビジネスショウ 2001 TOKYOでの展示
(2001/5/22-5/25)
Photo:Satoshi Sunahara
「info.bar」のコンセプトの一つは「ファッションとしての価値を持つケータイ」そしてもう一つは「ケータイとPDAの二面性を持つ電子情報機器」だった。info.barは、ケータイの形状が二つ折りに集約されていく中、敢えてバータイプの形状を採用。表側は片手親指による操作でメールが打ちやすく、好みに合わせて色を選べるタイルのような大型のキーを搭載したケータイ。裏側は全面タッチパネルディスプレイで、PDAとしての基本機能に音楽や動画やテレビはもちろん、セカイカメラのようなAR(拡張現実)にも対応している想定だった。Bluetoothヘッドセットもデザインした(左の画像をよく見ると、左下にBluetoothヘッドセットを装着してPDA側の面を操作するイメージ画像が)。info.barは、単なるオシャレなケータイでなく、近未来的なスーパーモバイルデバイスを志向したコンセプトモデルだった。


info.barを企画していた当時、IT業界の中では、PDAがケータイになるのか、ケータイがPDAになるのかという議論がなされていた。1997年のメール機能搭載、そして1999年のiモードの登場により単に持ち運びできる音声通話のためのデバイスから高度なモバイル情報通信機器になりつつあったケータイ。そして逆にPalmやPocket PCのようなPDAは携帯電話機能を取り込むことで、より高度なモバイル情報通信機器への進化を開始しようとしていた。高度なモバイル情報通信機器の覇権争いをPDAとケータイのどちらが征するのか、まだ結論が出ていなかった。そのどっちつかずの状況が、info.barにはそのまま反映されている。だが、それから数年も立たないうちに、PDAはケータイに駆逐され国内市場からはほとんど消えてなくなった。僕もカシオのCASIOPEAやHandspring社のVisor Edge、ソニーのCLIEといったPDAを使っていたが、こうしたPDA不利な状況の中で最後は渋々ケータイへと移行した。一方、ケータイは世界一の進化を遂げ、全盛を誇ることになる。表がケータイ、裏がPDAとしてデザインされたinfo.barは、表のケータイ面だけが具現化されてINFOBARとしてデビューした。Windows mobileを搭載したWilcomのW-ZERO3シリーズや米国で人気を誇ったBlackBerryのようなスマートフォンが登場しても、国内ではマイナーな存在でしかなかった。
2001年5月、ビジネスショウ 2001 TOKYOでの
展示。左奥がinfo.barの裏面で動画再生のデモを行った。
チョコバーのパッケージのようなケースの提案も。

Photo:Satoshi Sunahara
しかし、あまりに進化しすぎて世界標準とはかけ離れてしまった日本のケータイはガラパゴスケータイなどと揶揄されるようになり、iPhone上陸で国内ケータイ市場は再び大きな変革の時を迎えている。「ケータイとPDAの二面性を持つ電子情報機器」というinfo.barのコンセプトに照らしてみると、ゼロ年代はinfo.barの表面、すなわちケータイ全盛の時代、そして10年代はinfo.barの裏面、すなわちPDA※を出自とするiPhoneをはじめとするスマートフォン復権の時代となり、info.barの表面と裏面が逆転しそうな勢いなのが現在の状況だ。info.barにはモバイルデバイスを巡る20年分のストーリーが始めから折り畳まれている。
2002年5月、ビジネスショウ 2002 TOKYO での展示
Photo:Satoshi Sunahara
info.barの表と裏、ケータイとPDAは同じモバイルデバイスであっても、全く異なる文化的背景から生まれてきたものだ。日本のケータイ文化は、コギャルにルーズソックス、茶髪、プリクラ、たまごっち、109のカリスマ店員など数々のブームを生み出した団塊ジュニア世代(1975年〜1981年生まれ、2010年の時点で29歳~35歳)の女性たちがポケベル→ピッチ(PHS)→ケータイと渡り歩く中で作り上げたドメスティック文化だ。「かわいい」という感性と親和性が高く、今や海外に輸出される日本の「かわいい」カルチャーとケータイは、1995年前後から現在に至るまで共に育ってきた仲だ。ケータイは単なる電子機器でなく、片時も手放すことなく片手親指で絶えずメールをし、そうでない時も手でこねくり回しているカワイイ存在、そして自分の個性を表現するファッションアイテムとなる。彼女たちの利用スタイルと嗜好に合わせて、ケータイのカタチはコンパクトのような二つ折り全盛になり、カラーや仕上げは化粧品のパッケージのようになっていく。


それに対してPDAは、パソコンやインターネットと同様にグローバルな文脈を背景に持ち、ユーザーは男性中心。後者は「カッコいい」という感性あるいは「モダンデザイン」と親和性が高い。こちらは、やはり1995年前後から始まったイームズブームに端を発するデザインブーム、その最中でのVAIO(1997年)やiMac(1998年)などデジタルガジェットにおけるプロダクトデザインの洗練といった流れの中にVisorやCLIEのようなPDAがあった。ケータイについて言うと、この感性においてはモトローラのStarTacやノキア、エリクソンの端末が「カッコいい」モデルだった。たとえそれが国内メーカーのケータイより機能的に劣っていて、ケータイというより未だ“携帯電話”的な端末であっても。
2002年5月、ビジネスショウTOKYO 2002での展示
Photo:Satoshi Sunahara



レゴで作られた最初の形。
ここからinfo.barが生まれた。
Photo:Satoshi Sunahara
info.barを生み出したデザインプロジェクト(後のau design project)を開始した背景に、このデザインブームの流れがあった。女子高生による「かわいい」カルチャーのまっただ中でケータイは二つ折り一辺倒になり、10~20代女性の嗜好に迎合したデザインが増えていった。急速なディスプレイの大型化や多機能化といった技術トレンドを凄まじいサイクルで新商品に落とし込むのが精一杯で、デザインは画一的になり、どれも似たようなケータイばかりが店頭に並んでいた。デザインの多様性が失われていく中で、デザインブームを支えていた人々を中心に「欲しいケータイがない」「デザインのいいケータイが欲しい」という声が広がり始めていた。そしてau design projectそしてデザインケータイの始祖であるinfo.barが完成した。info.barにおいて、ケータイ文化とデジタルガジェットの文化、「かわいい」と「モダンデザイン」2つの感性が合流し、共存し、止揚したのであった。

※そもそもPDA(Personal Digital Assistant)という概念はAppleによるもの。1993年に発表されたNewtonがPDAの始祖であり、iPhoneへと至る系譜の源流だ。PDAという言葉は、AppleがNewton開発を推進していた当時のApple ComputerのCEOジョン・スカリーによる造語。もっともNewtonの売れ行きは芳しくなく、1998年に生産中止となった。


【深澤直人氏によるinfo.barキャプション(2001年発表時)

小さく滑らかなタイル状のキーの上を、親指が滑りながら文字を打っていく。
「親指のブラインドタッチ」はもう「ケータイ」操作のスタンダードになりつつあります。これは、日本人が生み出した新しい入力方式かもしれません。
移動中の気軽な片手操作はもう日常のコミュニケーションの新しいスタイルになりました。タイルキーは、その溝をデリケートな指先の感覚が感じ分け易いだけでなく、ユーザーのデザインによって様々な色のパターンに構成でき、個人がコーディネートできるファッション性を持つ、自分だけの「ケータイ」をつくりだせます。
PDA」か「ケータイ」か。世界はいつもその行方を見つめています。そこには、それぞれの情報の入口としての特徴と利点があり、生活と文化の背景を背負っています。裏表にそれぞれの特徴を生かしたダブルフェイスの情報バー。これは、新たなコミュニケーションの形を示唆しています。


深澤直人氏によるinfo.barキャプション(2002年発表時)】

「ひとと同じものを持ちたい。でも、ひとと少し違うものがいい。」
info.barはそんな矛盾する欲求を満たす新しいデザインのプラットフォームだ。タイルのようなキーの色を自分の好みにあわせて選ぶことができる。携帯電話はもっとも身体に近い電子機器としてその存在を確立した。そうなるとそれはもはや電子機器としてのスタイルを超えて、IDのような個人を表わすデバイスとなる。ファッションは最も個人のアイデンティティーを表すものである。だから携帯電話もファッションとしての価値を持ってもおかしくない。大きな四角いキーは見やすくて、しかも親指でメールが打ち易い。まるで板チョコのような、薄くて手になじむinfo.bar。それは個人を大切にした新しい情報機器の形かもしれない。

2010年3月3日水曜日

デザインケータイの10年:au design projectとAppleの知られざる関係

「Appleは世界一のモバイルデバイスカンパニー」。2010年1月、AppleのCEO、スティーブ・ジョブズはiPad発表の壇上でそう言った。Appleに続くのはNOKIA、SAMSUNGそしてSONY。


「iPhoneはケータイではない。小さなMacだ。コンピューターだ。だからメジャーにはならない。」「iPhoneは片手で操作ができない。メールなんてとても打てない。タッチパネルよりも物理キーのほうがいい。」「ケータイではリセットなんてありえない。バグが当たり前の世界は、ケータイユーザーには馴染まない。」・・・「iPhoneはキャズムを超えた。」「今や多くの女性も使っているし、お年寄りだって使ってる。」iPhoneを巡る様々な言葉。


2008年7月のiPhone上陸から1年半が過ぎた。 今、日本のケータイ市場が再び大きく変わろうとしている。世界一進化した日本のケータイは、今やガラパゴスケータイと揶揄され、iPhoneやAndroidのようなスマートフォン勢にこれまでにない攻勢をかけられている。スマートフォンと区別するために、業界ではケータイのことをフィーチャーフォンと呼ぶようになった。フィーチャーフォンとは「機能特化型携帯電話」の意味で、好きなアプリを自由にインストールすることのできるスマートフォンに対して、いろいろな機能があってもユーザーがカスタマイズできる自由度が制限されている従来的な携帯電話を差す。スマートフォンがパソコンなら、フィーチャーフォンはワープロ専用機。文章を打つ目的なら安定してシンプルなワープロの方が、パソコン上で文章を作成するよりも便利だったのに、ワープロは消えていった。ある機能に優れているからといって生き残るわけではないのがこの世の常。10年前、僕にとってPDAは無くてはならない存在だったのにケータイの登場でPDAは見事に駆逐されてしまった。PIM機能としてはケータイは明らかに使いにくかったのにも関わらず。そして今度は、国内で一度絶滅したPDAの延長線上にあるスマートフォンによってケータイが追われる立場になった。


iPhoneの登場で、INFOBAR、talby、MEDIA SKINなどau design projectのケータイを使っていたユーザーの多くがiPhoneに乗り換えた。2004年、僕らはマーク・ニューソンとtalbyを作っていた。作りながらマークやtalbyの音楽を担当していたニック・ウッドといつも話していたのは、Appleとケータイを作ろうということだった。その時マークは、ジョナサン・アイブ(Appleのインダストリアルデザイングループ担当上級副社長)からもらったパーカーを着ていた。ジョナサン・アイブはtalbyをとても気に入っているとマークは言った。2004年11月にtalbyが発売され、2005年9月にiPod nanoが発表された。talbyのドーナツ形状のスクロールキー(センターキー)とiPod nanoのクリックホイールのデザインは全く一緒。角Rの取り方もそっくり。まるで兄弟のようだった。『Mac Fan』2005年12月号にはテクノロジーライター大谷和利氏のアイデアということで、talbyとiPod nanoを一緒に収納できるシリコンケースのアイデアが掲載されていた。


2007年1月9日(米国時間)スティーブ・ジョブズがiPhoneを発表し、携帯電話を再定義した。2007年1月16日、僕らはau design projectの第6弾MEDIA SKIN(デザイン:吉岡徳仁)を発表した。MEDIA SKINが発売されると、MEDIA SKINのメニュー画面をiPhoneのランチャー風に変更できるFlashのデータを誰かが作ってネットに上げた。それでMEDIASKINはiPhoneと融合した。


2007年の夏、チームラボの猪子寿之さんとインタラクションデザインをテーマにしたコンセプトモデルactfaceを発表した。iPhoneの西洋的、合目的的なインタラクションデザインに対して、「操作すること自体が楽しくなる」日本的なインタラクションデザインを目指して。


2007年9月、au design projectの第7弾INFOBAR 2(デザイン:深澤直人)を発表した。2008年夏、新しいiPod nanoのリーク画像がINFOBAR 2に似ているとネット上で話題になっていた。「そんな、まさかね」と深澤さんと話していたが、9月に発表された新しいiPod nanoはINFOBAR 2にそっくりだった。


au design projectとAppleは、あるいはau design projectユーザーとAppleユーザーは、こんな風に昔から物理的にも心理的にも近しかった。だから、iPhoneが出たらau design projectのユーザーが乗り換えることなんて何年も前から僕らには分かっていたことだった。そもそも、au design projectは、Appleのような会社になりたいという思いから企画したプロジェクトだった。一方でiPhoneに乗り換えずにau design projectやそれを受け継ぐiidaをずっと愛し続けてくれているユーザーがいる。あるいはiPhoneと共にau design projectあるいはiidaのケータイを使い続けてくれているユーザーがいる。僕らはそうしたユーザーの期待に応えなくてはならない。Appleとは違う道。