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iida EXHIBITION launch event on October 29, 2010 / iida and ALESSI / X-RAY
iida and ALESSI exhibition
X-RAY mobile phone installation
designed by Tokujin Yoshioka
Installation by Team Lab
Installation by Team Lab
Marcel Wanders
Marcel Wanders
Tokujin Yoshioka
iida and ALESSI
Smart Phone Concept designed by Marcel Wanders
iida and ALESSI
Mobile phone concept designed by Patricia Urquiola
iida and ALESSI
Mobile phone concept designed by Stefano Giovannoni
Photo: Satoshi Sunahara
Copyright © Satoshi Sunahara All Rights Reserved
2010年11月1日月曜日
「 LLOVE 302号室 “うもれる” 永山祐子」 ー植物そして足裏の記憶ー
泊まることも可能なホテル型展覧会LLOVEが面白い。中でも永山祐子さんの手がけた302号室が素晴らしい。
玉砂利に埋もれた部屋に植物が庭にあるかのように生えてる。腰ぐらいまである玉砂利の高さまで登り、玉砂利を裸足で踏みしめつつ、植物をかわしつつ、ちょっと不安定な感じで部屋の中を歩く。
開催初日、302号室にいた永山さんから直接この部屋のコンセプトを聞く。私たちに合わせてくれる部屋でなく、私たちが合わせていく部屋。なるほど。
302号室を出た後、足の裏に玉砂利の心地良い記憶が残っていることに気づく。それはしばらく続いて、なんだか得した気分になった。
2010年10月26日火曜日
X-RAY :「光」のデザインそして「秘密」
X-RAYの深い色合いが美しい透明のケース。「タフロン ネオαシリーズ」という新素材を採用している。ポリカーボネート(PC)をさらに強化するためのガラス繊維を配合しつつ高い透明性を実現したのがこの新素材。最先端の透明素材ながら、X-RAYのわずかに揺らめく表面に、吹きガラスの味わいあるゆがみのようなクラフト感覚を覚える。このわずかな揺らめきは、樹脂を成形する際のヒケやUV塗料の悪戯によるものだが、それらがかえってマスプロダクトらしくない表情を与えている。
深い色味を帯びた透明なケースの先に見えるもの。美しくレイアウトされた電子部品。液晶ディスプレイを駆動させるためのLCDドライバICや、液晶ディスプレイのバックライトを制御するためのIC。着信時にはその動きも見える超小型バイブモーター。超小型LEDで実現した7×102ドットの超高密度ドットマトリクスLEDディスプレイとそれを駆動させるためのドライバIC。このドットマトリクスLEDディスプレイ、新幹線車内で「朝日新聞ニュース」とか流れているあの電光掲示板の超小型版と思ってもらえればいい。見慣れた装置だけどこの小ささは実は驚異的。各ICを覆っている金属のシールドケースは、普通は錫色だが、わざわざマットブラックの塗装が施されている。ケース越しには分からないが、ICが搭載されているプリント基板の色(=ソルダーレジストの色)も、普通は緑色のところ、X-RAYでは黒く塗られている。基板の上に配置された文字:"QUALCOMM 3G CDMA"、"QSD8650"、"Snapdragon(TM)"、"LIFE>PHONE"。これらの文字は、設計上はここに書かれている必要のない文字だが、基板に相応しいフォントを使って効果的に配置されている。"QSD8650"、"Snapdragon(TM)"というのは、X-RAYに搭載されている米・クアルコム社製の新CPU(クロック周波数1GHz)のことで、このCPU自体は、下筐体側のメイン基板に搭載されている。
透明の筐体から誰もが思い出すのがiMac(1998年)から始まったトランスルーセント(半透明)ブーム。しかし、吉岡さんはこのX-RAY開発当初から、iMacのようなキャンディーカラーの半透明、Yum(おいしそう)な トランスルーセントとは違う方向を厳密に目指していた。もっと大人っぽく、もっと高級感のある透明へ。
iMacの半透明は、それまでのパソコンとは一線を画すポップさ、軽やかさをもたらし、当時のデザインブームの最中でインテリアに違和感なく溶け込む存在となった。iMacの半透明は軽やかさのための表現だ。初期のiMacの半透明ボディに内部を見せようという強い意思はあまり感じられない。iMac DVでは「グラファイト」や「ルビー」など透明度が高く内部がよく見える筐体が採用された。しかし基本的には軽やかな印象を与えるための「外装素材」であった。
スティーブ・ジョブズが基板の部品配置や配線処理についても美しさを技術者に要求し、技術者が「誰がそんなところを見るのか?」と反発したら「俺が見るんだ」と言ったとかいう逸話がある。内部へアクセスするためのスマートさや、内部機構の美しさはAppleファンなら誰しも知っている。ただ、やはり内部は内部としてデザインされ、外部は外部としてデザインされているように思う。iMacの半透明は、美しい内側が見えこそすれ、あくまでポップな装いのための「外装」ということが重要だった。Power Macintosh G3やG4 Cubeの半透明あるいは透明ボディは、半透明もしくは透明ながら外部と内部とは隔てられたデザインになっている。総じてAppleの半透明、透明は軽やかさ、非物質性、浮遊感を表現するための「外装」だった。
X-RAYを発表して「キカイダー」みたい!という感想をたくさん見聞きした(笑)ちなみに僕は「キカイダー」ってあまり記憶に無いんですけど。。。まあ、そのキカイダーよろしく、中がどうなっているのかを具体的に示すための、いわゆるスケルトンモデルというものがある。カメラとか電化製品とか車とか、そうしたモノたちの内部構造がどうなっているのかを見せるために敢えて透明のボディで作られたモデルである。スケルトンモデルは「中がどんな構造になっているのか知りたい、見てみたい」という私たちの解剖学的興味を満足させてくれる。そういう魅力を持っている。だがこれらは、内側をデザインしたものでなく、普段は隠蔽されている内部を特別に曝け出したモデルにすぎない。
「プロダクトデザインというよりも、光を直接モノに組み込むことで、まったく新しい表現を生み出したかったのです。」(X-RAY:吉岡徳仁インタビューより)
外側のかたちではなく、内側からデザインされたX-RAY。普通は外装ケースによって隠蔽されている内部機構。その内部をまず美しく整えること。そして、透明な外装の透明度と色合い、見せるものと見せないものを巧みにコントロールする。美しく光を操り、デザインされた内部の見え方を調整する。X-RAYは、外部と内部の間、透明と不透明(隠蔽)の間、光と闇の間でデザインされている。X-RAYは「光」をマテリアルとしてできている。光がどれだけの強度で奥に差し込むべきか、光によって何を見せ、何を見せないのか。そして完成したX-RAY。深い色を帯びた凪の海。その奥底に見える美しい古代都市を眺めるように、私たちはX-RAYを覗き込み、夢中になる。見えてはいるが、そこにはまだ秘密の何かが隠されている。だからずっと見ていたくなる。iMacの半透明は内部がどれくらい見えようが見えまいが、そこに「秘密」は些かも無い。だがX-RAYには魅惑的な「秘密」がある。
2010年10月20日水曜日
X-RAY プロトタイプ
X-RAYは、雑誌『PEN』の「吉岡徳仁とは、誰だ?」(2009年5月15日号)ではモザイク写真の状態でプロトタイプが掲載されたり、テレビ番組「情熱大陸」に吉岡さんが出演した際には、透明なアクリルのモックアップを吉岡さんが手にしていたり、発表に至るまでにちらちらメディアに露出していました。下記のテキストは、まだX-RAYがプロトタイプでしかなかった頃、書いたもの。
ーーー
「デザインとは、かたちを得ることで完成するものではなく、人の心によって完成するものではないかと考えています。また、自然の原理やその働きを発想に取り組むことが、デザインの今後において大切なものとなっていくのではと感じています。」(吉岡徳仁「セカンド・ネイチャー」展より)
大人っぽく深みのある色合いに着色された透明なケースの向こうに、かすかに見える電子部品。一見すると何ら衒いのない、誰も嫌わない形をした二つ折りのケータイながら、計算された透明度と艶と色が、これまでのケータイには無い魅力を醸し出している。
吉岡が目指したのは、かつてのiMacのようなキャンディーカラーのポップな透明ではなく、もっと大人っぽく、もっと高級感のある透明。「自然の原理やその働きを発想に取り込むこと」がデザインの未来だと考える吉岡は、葉の形が自然の摂理に基づくいろいろな理由から出来上がっているように、携帯電話も機械(メカ)、電子機器だけれども自然だと言う。ケータイが複雑な機構や電子部品の組み合わせで出来ている事実=自然を、デザインされた形で隠蔽してしまうのでなく、かすかに見せること。それが、単に美しいデザインで終わらない深みのある魅力をこのケータイにもたらしている。
このケータイのもう一つの魅力、透明ケース越しに見えるサブディスプレイは、電光掲示板を使った作品で知られるアメリカの現代アーティスト、ジェニー・ホルツァー(Jenny Holzer)を思わせる美しい演出になる予定だ。
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「デザインとは、かたちを得ることで完成するものではなく、人の心によって完成するものではないかと考えています。また、自然の原理やその働きを発想に取り組むことが、デザインの今後において大切なものとなっていくのではと感じています。」(吉岡徳仁「セカンド・ネイチャー」展より)
大人っぽく深みのある色合いに着色された透明なケースの向こうに、かすかに見える電子部品。一見すると何ら衒いのない、誰も嫌わない形をした二つ折りのケータイながら、計算された透明度と艶と色が、これまでのケータイには無い魅力を醸し出している。
吉岡が目指したのは、かつてのiMacのようなキャンディーカラーのポップな透明ではなく、もっと大人っぽく、もっと高級感のある透明。「自然の原理やその働きを発想に取り込むこと」がデザインの未来だと考える吉岡は、葉の形が自然の摂理に基づくいろいろな理由から出来上がっているように、携帯電話も機械(メカ)、電子機器だけれども自然だと言う。ケータイが複雑な機構や電子部品の組み合わせで出来ている事実=自然を、デザインされた形で隠蔽してしまうのでなく、かすかに見せること。それが、単に美しいデザインで終わらない深みのある魅力をこのケータイにもたらしている。
このケータイのもう一つの魅力、透明ケース越しに見えるサブディスプレイは、電光掲示板を使った作品で知られるアメリカの現代アーティスト、ジェニー・ホルツァー(Jenny Holzer)を思わせる美しい演出になる予定だ。
道具作りの鉄人/岩崎一郎 そしてG11
岩崎さんは自分のデザインに関して寡黙だ。取材もあまり受けないから、岩崎デザインの魅力を岩崎さん自身の言葉から探り出すのは容易でない。なので、僕の頭の中に浮かぶ言葉を羅列してみる。「道具」「手」「丁寧」「凛」そして「優しさ」。そう、岩崎さんは飛び切りいい「道具」を頭でなく「手」で作る人だ。丁寧に作られた「道具」。凛とした佇まいを持つ「道具」。それでいて人なつこい優しさを感じさせる「道具」。岩崎デザインのアイコンであるミューテックの電話機、Contrastのグラスやエスプレッソメーカー、ラタン製の子供用チェア、、、ほら、みんなそうだ。
今回、iidaから発表したG11は、前作G9の後継機として企画された。持つ喜びを感じる「道具」としてのケータイを作り上げること。Gシリーズのミッションはこれに尽きる。Gシリーズの原形は、2001年に発表したコンセプトモデルGRAPPA、GRAPPA 002。GRAPPA(グラッパ)は、ご存知のとおりイタリアの蒸留酒のこと。コンセプトモデルの名前を岩崎さんにお願いしたら、考えてくれなかったので、、、岩崎さんとミラノで飲んだ思い出のグラッパを名前にすることに。一見、適当なネーミングだけど、グラッパの凛とした味わいとコンセプトモデルの凛とした佇まいが僕の中では繋がっていた。G9そしてG11の「G」は、そのコンセプトモデルGRAPPAの頭文字。後ろの数字は、発売の年。G11は2011年に発売するからG11。
「持つ喜び」という表現はカメラの上位機種や腕時計、あるいは万年筆のようなアイテムで良く使われる。ただ、本当に「持つ喜び」を感じる上質なプロダクトに出会うことは、そう多くはない。とりわけケータイでは。ケータイを、持つ喜びを感じる道具として仕立てることのできるデザイナーは岩崎一郎しかいない。G11の来春発売まで残り数ヶ月。岩崎さんは開発メンバーと共に丁寧に丁寧に仕事を進めている。
デザインケータイ最終形? X-RAYそしてG11
自虐的な「日本=ガラパゴス論」の3年の間に、かつては世界一の進化を謳っていた日本の「ケータイ」は「ガラケー」などと蔑まれるようになった。携帯電話キャリアは各社一斉にケータイからスマートフォンへと主軸をシフトさせた。
そして、auから登場したIS03を皮切りに、FeliCaやワンセグ、赤外線などこれまでのケータイの利点とスマートフォンの利点を融合させたスマートフォンが登場。日本のケータイ文化はスマートフォンに移植され、第2ステージへと向かおうとしている。
そんな中、iidaブランドとして今回発表したX-RAYとG11は、スマートフォンでなく、今まで通りのケータイ、フィーチャーフォン。X-RAYは2つ折り、G11はスライドと、機構的にも典型的なケータイの姿だ。「デザインケータイ」というジャンルを生んだau design projectが2001年にスタートとしてからもうすぐ10年。iidaへと受け継がれたそのスピリットは、この2機種を持って一つの頂点、極みに達したのではないかと思う。
2010年10月4日月曜日
料理人「吉岡徳仁」
吉岡徳仁さんは、かつてはよく(今も?)「素材の魔術師」と言われ、吉岡さんの作品の斬新さは新しい素材に負ってるようなイメージがあった。イームズとプライウッドの関係みたいに、デザイナーと新素材の幸運な出会いの逸話を思わせるような。でも実際に使ってるのはストローだったり、ティッシュだったり、羽毛だったり、必ずしも新素材でなく、というか大体まあその辺にあるものだったりする。一般的に手に入りにくいものだったとしても、まあその筋にいけば手に入るもの。
吉岡さんは「新素材」のデザイナーでない。吉岡さんはやっぱり料理人だ。料理の美味しさとか美しさとか斬新さって、決して最新鋭の野菜とか魚とか肉とかから生まれるわけではない(人工的に作られた最新鋭の野菜とか魚とか肉とかあるけど、それが決め手なわけではない)。大抵はそこそこ昔からある野菜とか魚とか肉といった素材を料理人が吟味し、これまでの料理人がやらなかった「切り口」で素材を組み合わせ、調理し、盛りつける。素材を慎重に吟味し、丁寧に下準備し、素早く調理し、美しく盛りつける。このプロセスは吉岡さんのプロセスそのものだ。吉岡さんは大豆ではなくてアクリルで豆腐を作る。吉岡さんはマグロとか松茸とか京野菜とかの代わりに、アクリルとかガラスとかストローとかティッシュとか羽毛とかを使って料理する。よくある食材だけど誰も食べたことのない美味を求めて。
吉岡さんは「カタチ」のデザイナーではない。「デザイン=カタチ」という図式は未だに私たちの中に強力に根付いている。吉岡さんのデザインは、料理が「カタチ」でないように「カタチ」ではない。吉岡さんのデザインの魅力を何となく上手く説明しにくいとしたら、それは「デザイン=カタチ」に捕われているからかもしれない。吉岡さんの手にかかるとケータイのデザインも「カタチ」が重要でなくなる。電子部品やら外装部品やらの集積体は一度ばらされ、個々別々の素材として再吟味される。そして、丁寧に下準備され、素早く調理され、これまで誰も食べたことのない美味しくて美しい一皿へと昇華する。料理において盛りつけの美しさが重要なように、結果としての美しい「カタチ」がそこには存在する。MEDIA SKINでは、外装素材は「第二の皮膚」というテーマの元に再吟味され、シボとソフトフィール塗料の組み合わせでこれまでにない「触感」を実現した。そして「カタチ」も美しかった。
吉岡さんは「あー、●●●!」のデザイナーである。吉岡さんは「第二の●●●」という表現を好んで使う。それは「代わりの」という意味ではない。「第二の皮膚」は「皮膚の代わり」ではない。それなら革とか使えばいいんじゃないかとなるが、そうではない。「第二の」は「あー」という感嘆詞だ。「第二の皮膚」は「あー、皮膚(みたい→身体&思考の一部であるかのよう)!」だ。素材の吟味と巧みな調理によって「第二の●●●」は完成する。同様に「第二の自然」は「自然(そのもの)の代わり」ではない。「あー、自然!」ということだ。それもまた、自然素材を使って表現すればいいというわけではなくて、「あー、自然!」という強度を実現するに相応しい素材を慎重に吟味することで完成する。料理人が最高の「あー、美味しい!」のために、素材を選び抜き、下準備し、素早く料理し、美しく盛りつけるように。
2010年9月30日木曜日
チーム
これからは「アノニマス」でも「デザイナーズ」でもなくて、「チーム」の時代だ。全くもって誰がやったんだか分からなくて曖昧な「アノニマス」。1人のデザイナーの名前がスターのようにきらびやかに舞う「デザイナーズ」。それに対して、「チーム」は、まるで映画のエンドロールのように、そのプロジェクトに関わった全ての人の名前が刻まれるスタイル。
プロダクトデザインの世界、とりわけ日本においては「アノニマス(匿名性)」デザインという考え方に価値を置く傾向にあって、デザイナー名が表に出ることを嫌ってきた。それはそもそもメーカーのインハウスデザイナーによるデザインが主流だったためで、ソニー製品のデザインは「ソニーデザイン」だった。社内デザイナー●●●のデザインといったところで、消費者はそこに何の価値も見い出さなかっただろう。80年代のCIブームの最中で、多くの企業がこぞって外国人デザイナーを採用し、そこでデザイナーの名前が広告的価値を持った。そしてゼロ年代のデザインブームの中で、まるでイタリア企業とデザイナーの関係のように、デザイナーの名前が企業名や商品名と並んで表に出るようになった。
映画とかテレビの世界では、監督やプロデューサーの名前を筆頭に、全スタッフの名前が、観客や視聴者に示される。僕は、そのスタイルがずっと好きだったし、なぜ、他のクリエイティブ分野は、そうなっていないのか疑問に思っていた。もちろん、例えば家電製品に工場のおばちゃんの名前までいちいち入れてたら「耳無し芳一」みたいに字だらけになっちゃうので現実的では無いのだけれど、それが理由ではないだろう。取扱説明書や今ならディスプレイを使ってイースターエッグ的に表示することも容易にできる。
「アノニマス」は出る杭を好まぬ日本人気質とそこから生まれる曖昧な形象のプロダクトと結びついている。「デザイナーズ」はその反動とロマン主義的オリジナリティ信仰を持ち出して差別化を図ろうとする意思と結びついている。
ちなみに「アノニマス」デザインの本来的な価値を否定するつもりはなく、あくまでここでは「アノニマス」の否定的側面だけを語っている。またおそらく「無印良品」はデザインされた「アノニマス」なので、本当は「デザイナーズ」なのだろう。
デザイナー、アーティスト、建築家などなどジャンルの垣根を超えて、繋がり合いプロジェクトが形成され、そこから作品や製品が誕生することが増殖しつつある現在。そうした状況に一番相応しいスタイルが「チーム」だ。
LIGHT POOLのデザイナー、坪井浩尚くんのウェブサイト。各プロジェクトのページには、それに関わった人々の名前が記載されている。
Hironao Tsuboi Design
「リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ」ドゥルーズ=ガタリ
2010年8月14日土曜日
縄文派/弥生派
au design project以来のデザインケータイは、インターネット文化やデザインブームの世界的潮流の中から生まれ、モダンデザインの系譜に接続され得るものだが、iidaになって始めたArt Editions(第1弾は草間彌生さん作品)は、究極のデコ電みたいなもので、日本の土着的かわいい文化の派生形である。。。こんな整理をしているうちに頭に浮かんだのが橋本治さんの「縄文的なもの/弥生的なもの」という日本文化の分別方法。この分別方法に従えば、デザインケータイって「弥生」的で、Art Editionsって「縄文」的だなと一人で納得。古代から現代まで日本文化には「縄文派/弥生派」という2つの潮流が渦巻いているとするこの分別方法を使って目に付くもの何でも分けてみると、スッキリ爽快、分かった気になるので僕はとっても気に入っている。
僕がこんな素敵な分別方法を手に入れたのは、橋本治さんを特集した何時ぞやの『芸術新潮』立ち読み。。。それっていつだったんだろうと、この機会に調べてみたところ、『芸術新潮』2003年10月号「特集 橋本治がとことん語るニッポンの縄文派と弥生派」だった。そんなに前だったんだと感慨に耽りつつ、ここまでお世話になったんだから買わなくちゃいけないよねという気になり、ヤフオクやら楽天やら探してみたところ、とある美術商のネットショップで1冊発見→即購入と相成りました。
「埴輪 VS 土偶」:埴輪というのは、「琴を弾いている人」とか「馬に乗っている人」とか「○○の人」というスタティックな表現になっていて、言ってみれば「体言止め」。「動き」よりも「人としてのたたずまい」が重要視されているのが埴輪。一方の土偶は「○○の女」といった静的な体言止めではなく、「女の○○している状態」といったダイナミックな状態とか感情を表現している。土偶は「女の怒れる」のような形。土偶のテーマは行為か感情かそういうものに由来する「ある状態」。ふむふむなるほど。
「光琳 VS 宗達」:光琳「紅白梅図屏風」の前ならきっと誰でも立ち止まるが、宗達「蓮池水禽図」の前はスッと通りすぎてしまう。光琳の絵は「見ろ」と言っているのに対して、宗達の絵は、気配を消している。「だから、スッと通り過ぎてしまえる。でも、通り過ぎた後で何かが残る—「あれ、今、確かに絵があったぞ」と思える。そう思ってみると、すごくいい絵だ。」(前掲 P.18-19)。宗達に関する後半の解説は、まるで昨今のデザイン論を聞いているかのよう。
日本文化のベースになっているのは「弥生」。そこに「異物」「過剰」としての「縄文」が出たり入ったりを繰り返してるのだという。その「弥生」というのは、一定のフォーマットの中で美を生み出すシステムである。「弥生」にも2種類あって「フォーマットの中であんまり暴れないようにするのが「弥生の弥生(大弥生)」なら、一定のフォーマットだからこそ縄文の血が騒ぐというのが「弥生の縄文」」(前掲 P.36)。例えば印籠。豪華な蒔絵などで装飾に凝って実用性から遠ざかろうと、「薬入れ」ですと言い訳できるよう重箱状の構造という薬入れとしてのフォーマットは残す。アクセサリーでも実用なんですよという「言いわけの美学」が弥生的な美学。からくり人形だって、お茶を運ばせる=実用ですよという言い訳が込められているし、簪についた耳かきもしかり。遠目には地味な小袖でも、よくみると松の細かな文様でびっしり埋め尽くしている。生活に根ざした実用というフォーマット=制約を崩さず、その上で大なり小なり遊びを楽しむのが弥生的な美学なのだ。神のイデアや権力者のロゴスに奉仕する西洋美術に対して、生活から生まれ、生活に密着しているのが日本の美術。なるほど、日本文化、日本美術そして日本の感性の基本は「生活」なのだ。そこでiidaのテーマ「LIFE > PHONE」???
「縄文派」って?「弥生派」って?それぞれに当てはまる具体的なモノをあげれば、誰でも直感的に分かります。
「縄文派」に属するモノ:北斎、安土城、日光東照宮、刺青、ヤンキーファッション、ヤン車(族車)、デコトラ、デコ電、渋谷109、アゲハ嬢などなど。豪奢で華麗、極彩色だったりラメラメだったり、俺を見ろ!私を見て!系。縄文派の代表的なデザイナーといえば森田恭通さんでしょうかね。
「弥生派」に属するモノ:光悦、龍安寺の石庭、桂離宮、相撲取り、無印良品、ソニーデザイン、モダンデザインなインテリアなどなど。侘び・寂び・禅系。弥生派の代表的なデザイナーといえば原研哉さんかな。
どっちが偉いかというと、だいたい弥生派の方が縄文派より断然偉い(笑)。。。縄文派は「土着」的で、弥生派は「和風洗練」。縄文派は「芸術」であり、弥生は「生活」。縄文式土器の一種、燃え上がる炎のようなフォルムをした火焔土器は「芸術は爆発だ!」そのものだし、のっぺりとしていて実用的な表情の弥生式土器は「生活!」って感じ。
前掲の『芸術新潮』の中で橋本治さんが「埴輪 VS 土偶」「光琳 VS 宗達」という対決で「縄文的なもの」と「弥生的なもの」の違いを解説しているのがとてもわかりやすい。
先日、現代美術家・天明屋尚キューレーションによるアートイベント「BASARA展」が青山のスパイラルガーデンで開催された。僕は、残念ながら全くもって行けず、未だにその展覧会の詳細を知らないで書いているのだけれど、展覧会の説明にはこうある。「侘び・寂び・禅の対極にあり、オタク文化とも相容れない華美(過美)で反骨精神溢れる覇格(破格)の美の系譜「BASARA」をテーマに、大胆かつダイナミックな和の世界が展開されます。」そして、出展作家の作品に加えて、出品されていたのは「印籠/織部茶碗/鍔/変わり兜/簪/縄文土器/煙草入れ/デコ電/族車/デコトラ他」。要するに「縄文派」を特集した展覧会なわけですね。時代は「縄文的なもの」=「異物、過剰」を求めているのでしょうか。ですね、きっと。僕がArt Editionsをやっているのもそうした時代の気分の反映なのではないかと。