料理人「吉岡徳仁」
吉岡徳仁さんは、かつてはよく(今も?)「素材の魔術師」と言われ、吉岡さんの作品の斬新さは新しい素材に負ってるようなイメージがあった。イームズとプライウッドの関係みたいに、デザイナーと新素材の幸運な出会いの逸話を思わせるような。でも実際に使ってるのはストローだったり、ティッシュだったり、羽毛だったり、必ずしも新素材でなく、というか大体まあその辺にあるものだったりする。一般的に手に入りにくいものだったとしても、まあその筋にいけば手に入るもの。
吉岡さんは「新素材」のデザイナーでない。吉岡さんはやっぱり料理人だ。料理の美味しさとか美しさとか斬新さって、決して最新鋭の野菜とか魚とか肉とかから生まれるわけではない(人工的に作られた最新鋭の野菜とか魚とか肉とかあるけど、それが決め手なわけではない)。大抵はそこそこ昔からある野菜とか魚とか肉といった素材を料理人が吟味し、これまでの料理人がやらなかった「切り口」で素材を組み合わせ、調理し、盛りつける。素材を慎重に吟味し、丁寧に下準備し、素早く調理し、美しく盛りつける。このプロセスは吉岡さんのプロセスそのものだ。吉岡さんは大豆ではなくてアクリルで豆腐を作る。吉岡さんはマグロとか松茸とか京野菜とかの代わりに、アクリルとかガラスとかストローとかティッシュとか羽毛とかを使って料理する。よくある食材だけど誰も食べたことのない美味を求めて。
吉岡さんは「カタチ」のデザイナーではない。「デザイン=カタチ」という図式は未だに私たちの中に強力に根付いている。吉岡さんのデザインは、料理が「カタチ」でないように「カタチ」ではない。吉岡さんのデザインの魅力を何となく上手く説明しにくいとしたら、それは「デザイン=カタチ」に捕われているからかもしれない。吉岡さんの手にかかるとケータイのデザインも「カタチ」が重要でなくなる。電子部品やら外装部品やらの集積体は一度ばらされ、個々別々の素材として再吟味される。そして、丁寧に下準備され、素早く調理され、これまで誰も食べたことのない美味しくて美しい一皿へと昇華する。料理において盛りつけの美しさが重要なように、結果としての美しい「カタチ」がそこには存在する。MEDIA SKINでは、外装素材は「第二の皮膚」というテーマの元に再吟味され、シボとソフトフィール塗料の組み合わせでこれまでにない「触感」を実現した。そして「カタチ」も美しかった。
吉岡さんは「あー、●●●!」のデザイナーである。吉岡さんは「第二の●●●」という表現を好んで使う。それは「代わりの」という意味ではない。「第二の皮膚」は「皮膚の代わり」ではない。それなら革とか使えばいいんじゃないかとなるが、そうではない。「第二の」は「あー」という感嘆詞だ。「第二の皮膚」は「あー、皮膚(みたい→身体&思考の一部であるかのよう)!」だ。素材の吟味と巧みな調理によって「第二の●●●」は完成する。同様に「第二の自然」は「自然(そのもの)の代わり」ではない。「あー、自然!」ということだ。それもまた、自然素材を使って表現すればいいというわけではなくて、「あー、自然!」という強度を実現するに相応しい素材を慎重に吟味することで完成する。料理人が最高の「あー、美味しい!」のために、素材を選び抜き、下準備し、素早く料理し、美しく盛りつけるように。
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